世界と江戸を結ぶ唯一の道であった長崎街道を起点に、開国のシンボルとなった居留地までを結ぶ一本道。距離にしてわずか2,710mあまりのこの道にはポルトガル船が初めて長崎に入港した(1571年)から居留地が終焉を迎える(1899年)までの、約330年におよぶ歴史の足跡が刻み込まれています。この歴史浪漫あふれる道を観光、まち歩きのメインストリートと捉え、新たに「長崎龍馬の道」と命名。道の辻々に、1番から45番までの番号を振ったプレートや旗を設置し、この番号をきっかけにして歴史探訪やまち歩きをお楽しみいただけます。激動の時代、龍馬たちが日本の未来へ思いを馳せ、夢を抱いて闊歩したであろう希望の道を、あなたもたどってみませんか。
nagasaki index #1~45




元治元年(1864)、幕府軍艦奉行並 勝海舟は、坂本龍馬や近藤長次郎などを伴い、熊本から有明海を渡って島原へ上陸。島原街道から長崎街道を歩いて長崎を訪れた。龍馬にとって初めての長崎。その逗留先が福済寺だった。勝海舟の長崎派遣は、外国艦船の下関攻撃を回避することが目的だった。2月23日から4月4日までの40日余りの滞在中、一行は長崎奉行所立山役所や西役所、大浦の外国領事館などを訪れ、アメリカ、オランダ、イギリスなどの各国領事と会見。オランダ領事から軍艦の下関派遣を猶予するとの回答を得たという。龍馬と海舟が長崎で相撲をとったという話が残っている。大男の龍馬と小柄な海舟、二人が組み合った様子はまるで鶴にタカがとまったようだったらしい。



玉川亭は、幕末期に多くの志士たちの会談の場として利用された。慶応三年(1867)8月には、坂本龍馬と土佐藩士 佐々木三四郎(高行)が長州藩士 桂小五郎(木戸孝允)と面会。大政奉還運動に危惧を示していた小五郎は、武力討伐の必要性を強調した。また、藩船修理費用一千両の立替えを龍馬に依頼。翌日、龍馬は土佐商会の岩崎弥太郎に融通を頼んだという。

「龍馬の銅像建つうで会(現在の長崎龍馬会)」が建立。平成元年5月21日に除幕式が行われた。銅像のコンセプトは「腕を組み、視線は水平線(世界)を見つめ、ブーツを履き、左足を一歩前に出した青年龍馬像」。台座からはみ出した左足は自由奔放で枠にとらわれない龍馬の性格を表している。制作は、長崎在住の彫刻家 山崎和國氏。台座碑文は作家の宮地佐一郎氏。銅像の高さは3メートル、台座の高さは1.8メートル。龍馬の実像に最も近い像という評価を得ている。
作家 司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』の一節を刻んだ全国初の司馬文学碑で、「亀山社中ば活かす会」が建立した。平成9年7月から碑石選びに着手し、12月に碑文と裏面のレイアウトを決定。平成10年2月1日に除幕された。高さ1.5メートル、幅3メートル、奥行き1.5メートル。碑文は『竜馬がゆく』怒濤編希望の章の冒頭部分、亀山社中創設のために竜馬が船で長崎港に入ってくる印象的な一節である。
| 碑 文 | 船が長崎の港内に入ったとき、 |
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文化四年(1807)、大神甚五平などによって開窯された亀山焼。当初は、オランダ船に使用する水瓶を製作していたが、文化十年(1813)からは大神甚五平の単独経営となり、白磁に切り替え、染付の上質なものを作った。以後、長崎奉行などの援助もあり、安政年間(1854~60)には御用陶器所となるなど経営は順調だったが、幕末になって経営不振となり、慶応元年(1865)に廃窯となった。亀山社中は、この空き家となった亀山焼の細工小屋を利用して組織された。下関市立長府博物館には、龍馬が長州藩士に贈った愛用の亀山焼の茶碗と湯呑が保存されている。
【亀山社中資料展示場】
坂本龍馬をはじめ、亀山社中、海援隊士、幕末の志士、幕末、明治期の長崎に関する古写真、龍馬の手紙の写しなどの貴重な資料を展示している。
■開 館 日/土・日・祝日
■開館時間/午前10時~正午、午後1時~3時
■入 館 料/無料


坂本龍馬が属していた神戸海軍操練所が幕府の圧力により解散に追い込まれると、その訓練生らは慶応元年(1865)4月25日、胡蝶丸で薩摩に向かう西郷隆盛らに同行して大坂を離れた。そして同年閏五月、長崎伊良林に本拠地を構えた(龍馬はこのとき太宰府で別行動をとっていたため、立ち上げ時には長崎にいなかったともいわれている)。彼らは当時、単に「社中」と呼ばれていた。亀山の地に本拠地を構えるに至った理由は、・長崎で豪商小曽根家や薩摩藩からの保護や協力が期待できたため、・江戸から遠く離れた地であり、幕府の監視の目がそれほど厳しくなかったため、・薩摩や長州など西南雄藩が地理的に近く、諸藩の藩士や外国人も多く居住していたことから国内外の情報が入手しやすかったため、・グラバーやオルトなどの外国人貿易商の存在により、他の開港場と比べて武器や艦船が容易に入手できたため、などと考えられている。慶応三年(1867)4月、亀山社中は土佐海援隊に改編され、小曽根邸へ本拠地を移した。
【長崎市亀山社中記念館】
■開館時間/午前9時~午後5時
■休 館 日/無休
■入 館 料/大人300円、高校生200円、小中学生150円

平成7年月、「亀山社中ば活かす会」は、亀山社中創立130周年を記念して「龍馬のぶーつ」の建立を決定。同年6月から募金活動を開始し、同年10月28日、亀山社中門前のポケットパークに建立した。亀山社中の創設がわが国近代化の「第一歩」となったことから、龍馬のトレードマークである「ぶーつ」を採択することになったという。

寺町通りの深崇寺と禅林寺の間から亀山社中を経て風頭公園へ至る小径は、坂本龍馬をはじめとした亀山社中の同志たちが往来したであろうことから「龍馬通り」と呼ばれ、地域の人に親しまれている。



慶応三年(1867)4月23日、坂本龍馬率いる海援隊が乗った船が紀州藩の大型船、明光丸と衝突した。世にいう「いろは丸事件」である。この賠償問題についての話し合いはまとまらず、談判の舞台は長崎にもちこされた。この事件の解決に命をかけていた坂本龍馬は、「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」という歌を丸山で流行らせるなど世論を味方につける。そんななか、土佐藩参政 後藤象二郎と紀州藩勘定奉行 茂田一次郎のトップ会談が紀州藩の宿舎である聖福寺で行われた。その結果、紀州藩が賠償金約八万三千五百両(のちに七万両に減額)を支払うことで決着。龍馬の巧妙な働きが土佐藩に全面勝利をもたらしたのである。
興福寺、福済寺、崇福寺と並ぶ長崎四福寺のひとつ。延宝五年(1677)、和僧鉄心道胖が開創し、長崎奉行や在崎唐人らによって建立された。

豪商 小曽根家の屋敷は現在の法務局の地にあった。安政六年(1859)、大浦に居留地が造成されると、小曽根六左衛門は越前福井藩の援助を受けて波の平、下り松海岸の土地を購入し、海面百三十間を埋め立てた。約半分が居留地に編入され、残りの海岸を利用して越前の国産物を輸出し、多大な利益を得た。六左衛門の長男栄(乾堂)は優れた書家、篆刻家。四男英四郎は、坂本龍馬の良き理解者で、亀山社中の創設や海援隊の運営を支援。小曽根邸が海援隊の本拠地であったともいわれている。慶応二年(1866)6月、龍馬は鹿児島からの帰路、妻のお龍を小曽根邸に預けた。お龍は翌年2月まで滞在したが、その間、鉄砲の名手でもあった英四郎から短銃を教わったといわれており、また、お龍本人の希望により乾堂の娘キク(当時11才くらい)からは月琴の手ほどきを受けたといわれている。小曽根町の本宅にはお龍が使用したとされる月琴が保存されている。

幕末頃には清風亭兵助という人物が主人をつとめ、十二畳の部屋と八畳の部屋が一室ずつあったと伝わる旧榎津町の料亭。慶応三年(1867)1月、ここで坂本龍馬と仇敵の土佐藩参政 後藤象二郎の会談が行われた。会談を終えた龍馬に亀山社中の同志が後藤のことを尋ねると、龍馬は「近頃の上士の中では珍しい人物であった」と答え、「彼と我とは昨日まで刺せば突くという敵同士であったのに、あえて一言もこれまでのことにふれず、ただ前途の大局のみを話す。これは人物でなればできない。また話題を常に自分に引きつけ、他人に引きずられないところは、全く才物である(『維新土佐勤王史』より)」と語ったといわれている。二人はこの会談を通して意気投合。以後、協同して政治活動にまい進し、同年4月には土佐海援隊を結成。10月には大政奉還が実現した。このことから「清風亭会談」は幕末史上極めて重要な出来事のひとつにあげられている。

幕末から明治にかけてお茶を輸出し、一代を築いた女傑 大浦慶(1828~84)は、油屋町の老舗の油商大浦家に生まれた。商人としての才覚に恵まれたお慶は、若い頃から茶貿易に注目。嘉永六年(1853)、オランダ商館員テキストルに嬉野茶の見本を託し、イギリス、アメリカ、アラビアに送った。これがきっかけとなって、安政三年(1856)にはイギリス人貿易商オルトと一万斤(約6トン)を取引。以後、日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得た。また、坂本龍馬をはじめとする志士たちへも経済的に支援したといわれ、海援隊士 陸奥陽之助と懇意だったとも伝えられている。
土佐商会は、長崎貿易を行うことを目的に後藤象二郎が西浜町に開設した土佐開成所長崎出張所。慶応二年(1866)12月に設置され、慶応三年(1867)2月から業務が開始された。同年5月26日、象二郎は土佐藩士 岩崎弥太郎を土佐商会の主任に抜擢した。弥太郎は、外国人貿易商などを相手に武器や弾薬などを輸入する一方、その資金獲得のために土佐物産(樟脳、鰹節、和紙など)を販売。坂本龍馬率いる海援隊の金庫番の役目も果たしたという。いろは丸事件の際には、談判に席を並べて賠償金の交渉にあたり、イカルス号事件のときは、英公使パークスの抗議に対して一歩も譲らなかったといわれている。

妓楼 引田屋の庭園内にあった茶屋の名を引き継いだ史跡料亭花月。頼山陽などの多くの文人のほか、幕末期には岩崎弥太郎や海援隊士も訪れたという。集古館には、イカルス号事件の際に坂本龍馬が長崎奉行所に提出した苦情書の下書きといわれる書簡なども残されている。
坂本龍馬は、長崎最後の滞在時期、出島の中に店を構え、土佐藩の主な取引先だったハルトマン・ベッセル商会からライフル銃一千三百挺を買い付けた。購入したライフル一千三百挺のうち百挺は保証人となった二人の長崎商人に渡され、二百挺はのちに大坂に送られ、残りの一千挺は龍馬とともに土佐に輸送されたといわれている。今も出島に残る旧石倉はハルトマン・ベッセル商会が使用していた倉庫である。
寛永十八年(1641)に平戸オランダ商館が出島に移転。以後、安政の開港まで約220年間、出島は西洋に開かれたわが国唯一の窓口だった。
慶応三年(1867)7月6日夜、長崎寄合町の路上で二人のイギリス人水夫が殺害されるという「イカルス号事件」が起きた。英公使パークスは独自の調査から海援隊士の犯行であると目星を付け、奉行所に直訴した。高知の船上談判では結論が出ず、土佐藩関係者は平山図書頭、パークス、領事フロウル、書記官アーネスト・サトウと長崎の運上所で会見。立山役所で関係者一同の審判があった。龍馬も才谷梅太郎の名で取り調べを受けたが、海援隊による犯行は実証されず、長崎奉行は「お構いなし」の判決を出した。その後、明治になって事件後に自害した福岡藩士 金子才吉の犯行であったことが判明したのである。
寛文十一年(1671)、外浦町にあった長崎奉行所東役所が、現在の長崎歴史文化博物館の地に移転。玄関、広間、台所が置かれ、さらには天草富岡城の用材をもって正門、長屋などが建築され、延宝元年(1673)に落成、立山役所と改称された。文久三年(1863)、英語伝習所が乃武館から東長屋内に移されたが、元治元年(1864)に江戸町に移転。明治元年(1868)には長崎裁判所総督 沢宣嘉の官邸となり、以後も県令の官舎とされ、明治五年(1872)以降は広運学校や、県立の各種学校の敷地となった。
安政六年(1859)の開港にともない、長崎会所の一部として設置された。当初は湊会所と呼ばれていたが、文久三年(1863)に運上所と改称。現在の長崎税関の前身である。


1865(慶応元)年に坂本龍馬が結成した亀山社中は、グラバーから薩摩名義で購入した武器や船を長州藩に渡すパイプ役だったといわれているが、グラバー以外の外国商人との接触はなかったのだろうか。『岩崎弥太郎日記』の中の「瓊浦日歴其一 慶応三年五月」によると、5月22日午後7時頃、弥太郎は後藤象二郎、坂本龍馬ら数名とオルト氏を訪れ、イギリス提督と会って盃を交わしたと記されている。オルトは、大浦慶と製茶販売の事業で提携し、九州一円から茶を買い求めて輸出、巨額の利益をあげたことで知られているが、わが国に最初の蒸気船を売却した人物でもある。その日の日中に、聖福寺で「いろは丸事件」の交渉が行われたことを踏まえると、彼らがどんな相談をしたのか、そのやりとりが興味深いところである。

